京都では上七軒、先斗町、祇園甲部、宮川町、祇園東の5つの花街(かがい)が知られるが、他に、かつて花街として栄えた島原があります。◆場所はここです。
私、実は「島原 角屋(すみや)」を誤解をしていました。
そこで「角屋もてなしの文化美術館」でいただいたパンフから、島原、角屋、花魁、揚屋、置屋などを説明します。
私の誤解とは、ボランティアガイドの方も仰ってましたが「江戸の吉原と混同されて遊郭だと思っておられる方が今もおられる」、私もその一人でした。「吉原ではなくて新橋のような所だったようです。(私は名前しか新橋を知りませんが)
5つの花街(祇園界隈他)からかなり距離が離れている為に廃れていったと説明を受けました。そういうこともあって、別物と思っていました。
角屋は遊廓の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店です。揚屋には太夫や芸妓を抱えず、置屋から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいただくところです。揚屋は江戸時代、民間最大の宴会場でした。そこでは遊宴のみならず、お茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割も果たしていました。そのため、揚屋建築は、大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴とします。ちなみに、いわゆる遊廓の店には、大座敷、広庭、茶席などはなく、ほとんどが小部屋のみの構造です。下は中戸口
角屋の外観の格子は、近世初期の京都町屋に広く使用されていた格子のすがたを伝えています。したがって、江戸吉原の花魁(おいらん)を見せるための牢屋のような格子(籬 まがき)では決してありません。
揚屋(あげや)と置屋(おきや)
島原には昔から揚屋と置屋があり、揚屋とは太夫や芸妓をおいてない家で、置屋から太夫や芸妓を呼んで遊宴を行ったところで、今でいう料亭、料理屋に当たります。
天明年間(1781~1789)前後、角屋では、当時の一流画人に襖絵の制作を依頼し、石田幽汀、円山応挙、江村春甫、与謝蕪村、岸駒などの画蹟が残されています。
幕末の頃には諸大名をはじめ、西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、坂本竜馬、山縣有朋、伊藤博文、などが角屋を利用し、西郷隆盛などの勤皇の志士たちが軍用金調達のため鴻池、加賀屋などを招き饗宴をしたと伝えられている。
新撰組の近藤勇や芹沢鴨なども出入りし、その刀痕が柱に残っている。
太夫(たゆう)とは
遊宴のもてなしを公認された女性の中の最高位とされ、美しいだけではなく、茶、花、詩歌、俳諧、舞踊、文学などあらゆる教養を身につけており、歴史上では「吉野太夫」「八千代太夫」が有名です。
網代の間です。
灯りは行燈だけです。
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天井が網代、赤い壁も素晴らしい。
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2階が素晴らしいそうですが、撮影は禁止なので行きませんでした。
明日は「大座敷・松の間」の室内、襖絵、庭、そして台所をお伝えします。
今日11月1日から、御所の一般公開が始まりました。御所の過去のブログです。
百万遍の知恩寺では古書籍市も始まりました。今回、テレビでやってましたから、スゴイ人出でしょうね。(両方5日まで)京都の古書組合古書の検索が出来ます。
※「鷹峰 源光庵・悟りの窓」写真を増やしました。
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紅葉の名所写真 真如堂 (2004/11/12)