狛狐 伏見稲荷大社
伏見稲荷大社の場合は狛犬ではなく狛狐です。楼門の両側で立派な
きつねが迎えてくれます。伏見稲荷大社のHPに書かれている由来から、
なぜ狐なのかが分かるかも知れません。
欽明天皇が即位(539または531)する前のことについて、『日本書紀』
では次のように書かれています。
欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おお
つち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下を
うまく治めることができるでしょう」という夢をみました。
天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたと
ころ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたのです。
天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに
何事かなかったか」と問われたところ、彼は「別段何もありませんでしたが、
伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしか
かったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけました
ので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事
などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争
うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おお
かみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。
そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそらく神のおかげ
であろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、やがてにぎわいを呈するよう
になり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあります。
平安時代初期に編集された『新撰姓氏録』によると、その当時近畿に住
んでいた諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち、「秦氏」は中国・秦の始皇
帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融
通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化した、とあります。
ところが、伏見稲荷大社のHPによれば、上のような由緒ある来歴はあま
りあてにならず、近年では秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考
えられているとのことです。
いずれにしても、雄略天皇の時代に、多数の渡来人があり、とりわけ秦氏
族は当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもた
らし、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、
記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱら
これらの氏族であったと考えられています。
朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわ
れるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされている。彼ら
はたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を
生かした専門職の地位を与えられていたようです。
山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされ、深草の
秦氏族は系譜の上では太秦の秦氏族の分家と考えられている。この太秦
の秦氏族は、7世紀頃、桂川の大堰を築堤したり、藤原氏と姻戚関係を
結び、長岡遷都や平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で
大いに影響を与えたとされます。
また、山背国の由緒ある豪族の賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結び、
ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。賀茂県主族は
名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくこと
によって、その名をとり、一方賀茂氏族は、当時としては近代的な文化
や経済などの実をとったのであろうと考えられています。
こうして太秦の秦氏族は、大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に
松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな
処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神が
あたかも鼎立する結果となったのです。
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